618日午後の衆議院本会議にて、「脳死は人の死」とすることを前提とした臓器移植法改正案の「A案」を可決しました。今後の焦点は参院での審議に移ります。

 さて、まず最初に人間の死の定義について考えてみたいと思います。

古来、人間の死とは何かは自明のことであったため、医学的に厳密に定義することは、さほど重要ではありませんでした。一般に、脳、心臓、肺すべての機能が停止した場合(三兆候説)と考えられており、医師が死亡確認の際に呼吸、脈拍、対光反射の消失を確認することはこれに由来しています。

順序としては一般に、@肺機能の停止 A心臓機能の停止 B脳機能の停止 という過程を辿ることになります。
しかし医療技術の発達により、脳の機能が完全に廃絶していても(そのため自発呼吸も消失していても)、人工呼吸器により呼吸と循環が保たれた状態が出現することとなりました。

すなわち、

*脳幹機能の停止
本来ならば心臓機能が停止する筈だが、人工呼吸器により呼吸が継続される

*心臓機能も維持される
という過程の結果生ずる状態が脳死です。脳死は、心肺機能に致命的な損傷はないが、頭部にのみ(例えば何らかの事故を原因として)強い衝撃を受けた場合や、くも膜下出血等の脳の病気が原因で発生することが多いのです。

本来、脳死に陥った患者は随意運動ができず、何も感じず、近いうちに(あるいは人工呼吸器を外せば)確実に心停止するとされる状態の筈でありますが、それを否定するような現象の報告例も多いのです。また、心臓は動いており、身体も温かい。脳死者の多くは、脊髄反射によって身体を動かすことがあります。

 次に、「臓器移植法」現行法と改正A案の違いについて見てみましょう。

*脳死の位置付け

 臓器提供の場合に限定して人の死 → 脳死を一般に人の死とする

*提供の条件

 本人が書面で意思表示し家族が同意 → 本人の拒否がない限り家族の同意で可能

*提供可能年齢

 15歳以上 → 制限なし

*親族優先提供

 なし → あり

となっています。

今回の改正案で最も評価される点は、提供可能年齢の制限が撤廃されたことでしょう。マスコミ等で、幼児が移植手術を受けるために、莫大な費用が掛かるにもかかわらず、わざわざ渡米して・・・というケースが何度も報道されていますが、今後このようなケースは少なくなることになります。

 ところで、臓器移植に関しては様々な意見があります。一部を簡単にご紹介しましょう。

@移植は自然に反する医療か

「他人の臓器をもらってまで生きようとするのは自然に反することで、このような医療は行うべきではない。」

A移植は他人の死を待つ医療か

「移植を待機する患者には、自分が生きるために他人の死を期待する感情さえ起こる。移植は人間性を歪める医療である。」

B「移植でしか救えない」は本当か

「‘移植でしか救えない’という診断が間違っていることがある。移植の適応とされた患者が、移植を受けないまま長く生存した例もある。移植をする必要がない患者まで、無理やり移植候補者にしているのではないか。」

C移植に替わる医療はあるか

「臓器移植という問題の多い医療を追求するよりも、人工臓器を用いたり、内科的治療に努力すべきである。」

D臓器移植は本質的に不公平な医療か

「提供臓器の不足のため、例えば心臓移植では希望者中ごく少数の人しか実際には移植を受けられず、移植は本質的に不公平医療である。」

Eレシピエント(ドナーから臓器を提供される人の選択は公平か

「提供臓器に対してレシピエントを選択する際に不公平が生じる。金や権力を握っている者が優先され、弱者が後回しにされるという事態も起こるだろう。」

F脳死臓器移植は脳死者の人権を侵害するものか

「脳死を認めるとむやみに臓器を摘出される危険があり、脳死臓器移植は‘脳死’患者の人権をおびやかすものである。」

G臓器移植は犯罪に結びつくか

「多くの開発途上国で移植用臓器の売買が行われ、欧米などでも臓器を得るための誘拐や殺人が多発していることは隠れもない事実である。臓器移植は人間性にもとる行為を引き起こしている。」

 このコラムを書くために私自身「臓器移植法」に関する新聞、文献にいろいろ目を通したわけですが、誰もが納得し、賛成できる妙案などは、ありえないと思います。前述のごとく、臓器提供をする側、臓器提供を受ける側、担当医師、それぞれの立場の人の感情は全く異なるものであり、一つにまとめることは不可能です。
私が心から願うことは、「臓器移植法」自体が無用の法律になってほしいということです。つまり、精巧な人口臓器ができること、内科的治療を向上させ、臓器移植の必要性がなくなることです。人口臓器開発の費用は、是非、国家予算から出していただきたい。

 私は、議員として今回の「臓器移植法」の採決を評価しています。それは、党議拘束が無く、議員個人の考えで投票されたことです。議会制民主主義は、こうあるべきです。